きずなと思いやりが日本をダメにする って!?(人権主事)  

 

 新聞の書評で目に留まった対談集『きずなと思いやりが日本をダメにする(解き明かす(最新進化学)「(が)心と社会」)』を、宗務所の帰路に求めました。社会心理学と行動生態学、それぞれの分野での第一人者、長谷川眞理子、山岸俊勇両博士による対談集で、ヒトの本性や行動志向に関する研究成果、特に、脳進化学の研究成果を踏まえる対談をまとめた一冊です。

 求めましたのは、好書評はともかく、何より其の書名が気に懸ったからです。なにしろ、私たちが標榜する“思いやり”や“きずな”が標的にされているのです。我が国を代表する科学者お二人からの標的にです。

 もっとも、政治や行政に対する問題提起という対談の狙いに沿えば、例えば、空気の読み合いでかえって空気が悪くなる・・人間集団では空気を読めない人もいないと、組織が暴走し、最後には自滅してしまう・・という指摘などには、昨今の「忖度」騒動や、政治運営・行政展開などに重ね合わせるとうなづけますし、面白く読み進めます。

        〔発行:集英社インターナショナル〕

 しかし、私たち宗門僧侶はもとより、関係者が広く大切にする“思いやり”“きずな”が日本をダメにするというタイトルを見過ごすこともできません。そこで、敢えて言葉尻をとらえ、その前後の論調などを無視していますので、紹介するにはためらいもありますが、気懸りの箇所、幾つかについて次のとおり考え、思いました。

 

他の人が何かの行動をしたとき・・その原因はその人の内面、つまり心にあると推定する「心の理論」・・これを積極的に活用している人たちがいるんですよ。それが詐欺師。

                                     〔P106〕

 「心の理論」、それは仏道とも大いに重なり合うように思います。お二人は、その理論を踏まえた「心の読み合い」により人間社会の秩序が得られている実態について、いろいろの実験で、実生活ではさほど心の出番はないとしつつ、ごく一部、詐欺師は相手の心理を読むために心の理論をフル活用するという。

 詐欺を常習とする詐欺師と同列にはされたくありませんが、人々の実生活でも、犯罪とは異次元のさまざまな、場合によれば方便としての嘘なども動員した心の読み合いによって社会秩序との擦合わせがなされているように思います。もちろんそれは学研的ではない、心情的な思いです。

 それにしても、お二人は対談において宗教を論じている訳ではありませんが、心の世界に勤める仏教者としては、詐欺師に間違われぬよう、心しなければなりません。

 

いじめは「心の荒廃」などという文脈で語られがち・・だが、本質的には、子どもたち 

 が自主的に秩序を作ろうとするプロセスの中で不可避的に起きる現象で、そのいじめを

 根絶しようというのは、子どもから自主性を奪おうとするにも等しい暴論だと思う

                                    〔P156〕

 遠き日の喧嘩やいじめ合いを振り返り、そういう側面も否めませんし、その対策としてお二人は傍観排除と教育システム変更を提起していますので、救われますが、そもそも、昨今の、想像を絶するいじめの実態を、きずなや思いやり、心の問題と関わらせずに論ずることができるのでしょうか。学研者のお二人は、関わらせてはダメと仰るでしょうが、関わらせずに現場で取り組むことには限界があると思います。

 

差別の原因は偏見ではない。差別が起きるのは、差別をしたほうが得な状況がそこにあ 

 るからであって、・・偏見が生み出すものではない・・差別問題を「心でっかち」で考え

 るな                                 〔P182〕

 差別する側のみを(科学的に)分析すれば、こういうことになるのでしょうか。少なくとも、損得の視点、しかも、一方の得の視点だけで差別の原因を探るのは、無理無謀なように思われます。そして、心でっかちの対極は「頭でっかち」といえるのではないでしょうか。折々の局面による、頭と心の組合せが必要だと思います。クールヘッドとウォームハートの組合せといえるかも知れません。

 

引きこもりというのは究極の他人依存ですよね。

 つまり、引きこもりをしている人たちは無条件に社会を信用しているわけで、ちっとも 

 孤立していない。

 「思いやり」とか「気配り」が日本古来の美徳であるなどとする風潮にしても、自助努

 力よりも相互依存の関係のほうがいいと思う人がそれだけ増えているということだ。

                                 〔P226~227〕

 距離を置き、冷めて観れば、そうかもしれませんが、この指摘を受け容れ、引きこもりを批判し自律を促しても、否定して何か・誰かに委ねようとしても、容易に途が見当たらず、悩みの尽きぬのが引きこもりの実態かとも思われます。ここでも、家族も含め、むしろ家族にこそ配意しながら、思いやりを疎かには出来ないと思います。

 そのヒントが、宗門の人権学習に係る映像教材【第17作・DVD『寄り添う~人間の尊厳を守る~』】チャプター⑤で紹介された野田大燈老師の実践で、お二人も評価なさるだろうと推察します。何故なら、野田老師は相互依存とかきずなといった関係性が成り立つには、それぞれ個別の関係者の自律(自分が自分を見つけること)の必要性を教えようとされているからで、随所作主の姿勢は、お二人の基本姿勢と遠くはないように思えるからです。

 

今の日本の「思いやり」って、要するに議論や衝突をできるかぎり回避しましょうとい 

 うことなんでしょうが、それって簡単に言えば「あなたには興味がありません」という

 ことでもある。                            〔P261〕

 お二人も言葉遊びをする積りなどありますまい。ご指摘の風潮を「思いやり」と呼ぶかどうかは別にして、私も好ましいとは思いません。しかし、私たちの「思いやり」を、その場凌ぎで繕う表面的な態度・顔色だとは考えません。私たちが掲げる「思いやり」の「やり」は単に「遣(や)り」過ごすのではなく、「行(や)り」及ぶことだと考えます。

 

「みんな違ってみんないい」という言葉が最近、流行っているようだけども、みんな違

 うっていうのは本当は大変なことであって、簡単に「いいね」とは言ってほしくない。

                                    〔P261〕

 みんな違う大切なことの科学的統計処理も、それに基づく学研も大変だと思います。ですから、私たちにとっての思いやりには、大本山永平寺西堂奈良康明老師の仰るとおり、訓練が、学習が肝心なのです。金子みすずさんも大切なことを心込めて詠んだのです。

 

「寄り添う」なんて気持ちの悪い言葉が流行っている            〔P262〕

 あらゆる介護の現場で大変なご苦労をされている方々の気持ちを思いやりますと、「気持ち悪い」とは悲しくなります。「擦り寄る」ならともかく、「寄り添う」は、曖昧でも、そのぶん懐の広い用語で、当に介護現場での取組姿勢を総称する言葉として、流行り言葉の枠外にあると思います。介護論議には統計や科学データも有用でしょうが、現場では、数字などのデータでは対処できない事例に数多向き合わざるを得ないと思います。用語用法はともかく、寄り添うしかないことが多いのだと、私の些細な体験からも思います。

 

逃げ道があれば、好きなことができる・・・わたしなんか日本でけっこう勝手なことを 

 やってきましたけど、それも、「いざとなったらアメリカに戻ればいいや」と思ってたか

 らですよ。でも、ふつうはレールから外れたときのリスクが大きい。    〔P265〕

 逃げ場のある人は羨ましい・・ふつうは逃げ場のないのが大半です。逃げ場があっても逃げようのない実情もありましょう。逃げれば無責任な場合もあるでしょう。そんなとき、心の世界に逃げ場が見つかるかも知れません。その導(しるべ)の役割を「思いやり」や「きずな」が担うのではないでしょうか。

「原理」を持った人のみが信頼を勝ち得る。  

 日本の場合、原理主義的に行動している人に対しては「融通が利かない」などという批

 判が起きたりするし、逆に一定に原理を持っていても、状況によってはそれにこだわら

 ないで問題を解決する人を「あの人は大人だ」と言ったりする。          

 原理原則よりもその場の空気を優先する社会では、たとえば差別なんて解消しませんよ。

 「差別は許してはいけない」という原理を掲げていても、「場合によっては差別はいい」

 ということになってしまいます・・・。               〔P267~269〕

 わかりますけど、学研の領域と異なり、多くの領域で、原理を貫きたくても適わぬ人々がなんと多いことでしょう。しかし、ささやかでも原理を貫くことができる心境、逆に、原理貫徹を断念して出合う心境、いずれもが人生へ染み、滲み、溢れ、その局面ごとに、柔軟な「思いやり」や「きずな」に支えられることも少なくないと思います。

 ちなみに、宗教者は原理を貫くのが本分ゆえ、真の宗教者ならいわゆる空気にとらわれることもなく本分を全うしましょうが、他者へは勿論、大自然への広い「思いやり」、更に、それらとの「きずな」も疎かにしない筈ですから、信頼が膨らみます。私は、未熟ゆえにこそ、「思いやり」「きずな」を、出合い・ご縁として大切にしようと思います。

 

個々の人々の「こころ」は、自分が置かれている社会の状況を感知し、他者がどう思っているだろうかということを思いながら動いています。つまり、「こころ」は、「こころ」どうしがつくる社会システムの中で複雑に相互作用しながら動いているのです。

 ですから、何か望ましくないことが起こっているとき、その多くは、人々の個々の「こころ」 の問題というよりは、「こころ」がそのように動くようにさせている社会システムの問題なのです。もちろん、個々の人々の「こころ」も大切ですが、人々をそのように行動させているシステムについて、まず詳細に考えるべきだ・・・。 〔P290(あとがき)〕

 詳細に考え、社会システムを改善したり、変更するためには、政治や行政と絡み合うことが多いわけですから、お二人の政治や行政に対する主張には、学研の立場からのもどかしさが滲んでいると思います。でも、社会システムの変更には、当然ながら、時間も含め多くのエネルギーが費やされるのが現実で、むしろ、強引な、または、独善的な手法などがまかり通るのでは問題です。

 一方で、人々の実生活、人々のこころは、その間も絶え間ありませんから、多くの人たちは、心の世界をないがしろにせず、思いやり、思い行うことを大切にすると思います。もちろん、私もそのうちの一人です。お二人も個々の人々の「こころ」の大切さを認めていらっしゃいます。社会の好ましくない風潮を浮き彫りにしようとなさっているのです。

 

 

 お二人の書中対談は更に旺盛に展開します。その目指すところは、学問的な根拠を踏まえた、科学的手法による観察・考察と、それによる政治行政の運営に対する問題提起だと思われ、私たちの標榜する「思いやり」や「きずな」を直撃しようとするものではなさそうです。とはいえ、直撃ならずとも、流れ弾には留意しなければなりません。

 例えば、私たちの「思いやり」「きずな」が、空気を読むといった程度のものに留まる限り、お二人の標的に連なってしまいましょう。それよりも何よりも、私たちの基本姿勢に悖ることになります。ですから私たちは「思いやりときずなが日本のタメになる」ように、訓練・学習を怠ってはならないのです。このような思考機会を得ましたことを、両博士に感謝したいと思います。

                    人権擁護推進主事 山口完爾

 

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